富士道

富士山につなぐ道

富士山の豊富な伏流水を活かして織られた上質な絹織物・郡内織。神仏が住む富士の頂上を目指し歩いた富士講の人々。
富士道を辿れば富士山が育んだこの地域の歴史文化が見えてくる。
大月市から富士吉田市までを通る道。江戸時代に整備された日本橋を起点とする五街道の一つ・甲州街道から大月宿で分岐し、富士山へと向かう道が富士道(ふじみち)です。郡内(ぐんない)地域(富士北麓・東部地域)の交通・物流の動脈として機能した道で、郡内地域の政治・経済・文化の中心であった谷村(やむら)(現在の都留(つる)市)につながる道という意味で、谷村路(やむらじ)とも呼ばれます。
郡内地域の特産品の一つに郡内織(ぐんないおり)という、きめ細かく上質な絹織物があります。山間で平地が少なく、気候も寒冷なため稲作にあまり適していない郡内地域では、古くから養蚕(ようさん)や絹織物生産が行われていました。富士道は郡内織の流通ルートであり、道沿いの村々で織られた郡内織が、この道を使って江戸・京都・大阪といった大都市へと出荷されました。
江戸時代になると江戸の町で富士講(ふじこう)が盛んになります。人々は富士山山頂には神仏が住まうと考え、こぞって富士山の頂(いただき)を目指しました。江戸の富士講の人々が自分の足で歩いたのがこの富士道です。
現在は、国道139号(愛称:富士みち)、富士急行線が通っています。

用語解説

■富士講(ふじこう)とは
荒々しい噴火活動を繰り返す富士山には、古くから神仏が住まうと考えられていた。噴火が収まると共に富士山に登る人々が現れ、江戸時代には一般庶民にまで普及、富士講という富士登山をする人々のグループが誕生した。「江戸八百八町に八百八講」と言われたほど、多くの富士講信者が富士道を歩いて富士山頂を目指した。
□富士講の装束
富士講信者にとって富士山は「あの世」と考えられていた。富士山へ登ることは一度死んで生まれ変わることであり、そのため死装束と同じ白衣の行衣を身に付けた。
□御師(おし)
御師とは、富士山への登山参詣者に宿を提供して心身を清める祈祷などを行っていた宗教者のこと。夏の間、御師は自宅を開放して富士信仰者を受け入れ、食事や不浄祓いの祈祷、登山の案内などの世話をした。冬場には、各地の富士講のもとへと足を運んで富士信仰の布教に努めた。
□富士講と養蚕(ようさん)
富士信仰の教えでは養蚕が重要視された。富士講発展の契機をもたらした行者・食行身禄(じきぎょうみろく)は、「浅間(せんげん)大菩薩は蚕(かいこ)の神」「日本は桑をもって人を助ける『扶桑国(ふそうのくに)』である」という教えを残した。明治以降の宗教政策の中で、各地の富士講は「扶桑教」として統一が図られた。
■郡内織(ぐんないおり)とは
南からの暖かい空気が富士山に遮られる寒冷地のため農業に適さない郡内地域では、古くから養蚕・絹織物生産で生計を立てていた。富士山がもたらす豊富な伏流水は染め物に使うと発色が良く、比較的雨の多い気象条件は織物に適した環境を生み出した。郡内では古くから織物生産が行われており、永年の歴史を持つ。大航海時代に舶来の織物の影響を受け、大きく発展したことも分かっている。
江戸時代になると、高品質でありながら比較的手の届く価格だった郡内織は、都市の町人たちに大人気となった。特に、先染め(さきぞめ)の糸で縞柄(しまがら)を織り出した郡内縞の人気は高く、当時の文芸作品には郡内縞を取り扱う店が繁盛する様子が描かれ、浮世絵の中にも郡内縞ではないかと思われる作品が見られる。
郡内織の一つである「カイキ(海気・海黄・改機など)」という織物は、細い糸を高密度で織り込んだ非常に高い技術で生み出される織物で、薄くて軽いのにハリコシがあり丈夫なことから、羽織の裏地(羽裏)として使われた。
奢侈(しゃし)禁止令が出されていた江戸時代、庶民は派手な着物を着ることができなかった。人々は表からは見えない裏地に工夫を重ね、オシャレを競っていた。
このカイキは、明治になると、甲斐の国で織られる織物という意味で「甲斐絹」と称され、明治~昭和にかけて大ブームとなった。
戦時中は思うように織物生産ができない時期があったが、戦後になると“ガチャッとひと織りすると一万円儲かる”とも言われ、「ガチャ万景気」と呼ばれた好景気に沸いた。しかし、次第により安い価格で製造できる海外にシェアを奪われてしまう。ガチャ万景気の頃、この地域では、様々なブランドの商品を自分の会社名を出さずに下請け製造するOEM生産が中心で、江戸時代には浮世絵や小説に登場するほど有名だった郡内織は、織物産地としても知られなくなってしまった。
現在は、こうした状況を変えていこうと、自社ブランドの立ち上げや、デザイン系大学とのコラボレーション、“ハタオリ”をテーマにしたイベント開催など、様々な取り組みが積極的に行われている。
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富士の麓の小さな城下町:谷村(やむら)コース

郡内織の江戸流通の拠点として栄えた“富士の麓の小さな城下町”、時折姿を見せる富士の姿からいよいよ山元にたどり着いたことを知る

郡内の中心である谷村には、江戸時代になると谷村藩が置かれました。江戸時代初期に谷村藩主となった秋元氏が城下町の整備を行い、現在も谷村の城下町には当時の町割りが残っています。
谷村城下では、田原の滝(たはらのたき)の上部から引き込んだ桂川の水を流して、農業用水や飲用水、織物生産など様々な用途に利用していました。現在も家中川(かちゅうがわ)が町中を流れています。
絹織物生産が盛んな上州総社(現在の群馬県前橋市)からやって来た秋元氏が、家臣の内職として絹織物生産を行ったことも、郡内織(ぐんないおり)の発展に関係しているのではと考えられています。
谷村には江戸の大店の支店が置かれるなど、郡内織の流通拠点として栄えました。谷村を代表する祭礼・八朔祭(はっさくまつり)で使われる豪華な屋台は、数軒の谷村の絹問屋がお金を出し合って造ったものです。郡内織の流通拠点として繁栄していた谷村の様子がうかがえます。
富士道は、現在の国道139号と重なって谷村の町中を通っています。
距離 : 約3㎞ / 所要時間 : 約3時間 / 徒歩

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富士山湧水の里:夏狩(なつがり)コース

郡内織を支えた湧水の里、尽きることない湧水に身も心も清められる

国道139号とほぼ重なって南進してきた富士道は、十日市場地区を過ぎると国道を右手に外れて夏狩地区へと向かいます。
環境省の「平成の名水百選」に選定されている「十日市場・夏狩湧水群」は、富士山に降った雨や雪が地下に染み込み、時間をかけて山麓から湧き出す自然の恵み。10か所以上あるポイントから豊富に湧き出る水は、年間を通して約12~13℃の水温を保ち、水かけ菜(みずかけな)やわさびの栽培に利用されているほか、都留市の水道の水源ともなっています。
また、富士山の豊富な水や溶岩は、様々な自然の造形美も生み出しました。無数の滝がシャワーカーテンのように流れ落ちる潜流瀑(せんりゅうばく)や特徴的な奇岩も、富士山がもたらした魅力の一つです。
距離 : 約3㎞ / 所要時間 : 約3時間 / 徒歩

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水音に織機の音が重なる:西桂(にしかつら)コース

優美な裾野を引く御山の姿を正面に、豊かな水音と織機の音が重なる

国道139号から一本南を走る道が古い富士道。西桂町小沼(おぬま)の旧道は「宿通」と呼ばれ、江戸時代から近代を通じて富士山に登る人々を受け入れる宿場としてにぎわいました。明治時代には、馬車鉄道の乗り換え所もありました。
小沼付近は、八の字の形をなして緩やかに裾を引く富士の御山の全体を、最初に目にする場所。江戸から歩いてきた富士講の人々も、次第に大きくなる富士の姿に思いを新たにしたことでしょう。
旧道沿いには今も現役の機屋(はたや)があり、道を歩いていると、時折、織機のカシャンカシャンという音が聞こえてきます。この旧道は、幕末から近代にかけて、横浜を中心とした糸や織物の商売が盛んになると、織物問屋の集落として発展しました。
町中には家の敷地の中まで用水路が張り巡らされ、豊富な水があふれんばかりに流れています。この水も織物生産には欠かせないものです。
距離 : 約3㎞ / 所要時間 : 約3時間 / 徒歩

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富士山に真向かう二つの町:上吉田・下吉田(かみよしだ・しもよしだ)コース

富士に真向かう一直線の道沿いに、聖なる町と俗なる町が隣り合う

富士吉田市に入った富士道は、下吉田の辺りで南へと方向を変え、富士山へとまっすぐ伸びています。
下吉田は、大正末期から昭和初期にかけて、化学繊維の導入が進んだこともあって、織物生産の中心となった地域。織物の売買を行う絹屋町(きぬやまち)が誕生し、織物関係の商売をする人々でにぎわいました。本町通りから路地裏に入れば、今もその雰囲気が感じられます。
上吉田は富士信仰の拠点。最盛期には80軒を超える御師宿坊(おししゅくぼう)があり、富士講の人々に対して、お祈りの作法のレクチャー、登山の案内、宿泊・食事の提供など、様々な世話をしました。表通りを歩くと、細長い引き込み路の奥にたたずむ御師坊(おしぼう)が、独特な雰囲気を醸しています。
距離 : 約8km / 所要時間 : 約8時間 / 徒歩

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