棒道

八ヶ岳山麓の自然に育まれた歴史と文化をたどる道

棒道が通る八ヶ岳の南麓は、かつて甲斐源氏が住まった地。名将・武田信玄が作ったとの伝承が残るこの道は、民衆の生活と物流の道でもあった。八ヶ岳や南アルプス、富士山を望む雄大な眺望の中、サムライたちと民衆の息吹を感じる道。
棒道は、八ヶ岳の南麓から西麓を通り、諏訪方面にまっすぐ伸びる道です。
ここは、甲斐源氏が力を蓄えた地。平安時代、八ヶ岳山麓には、朝廷に馬を貢納するための牧場・御牧(みまき)が設けられていました。12世紀、常陸国(茨城県)から父義清と共に市河荘(いちかわのしょう、現在の中央市・昭和町・市川三郷町付近)へ配流された甲斐源氏の祖・源清光は、ここに目を付け移り住んできたといわれています。
棒道の来歴には諸説あります。武田信玄が北信濃攻略のために作った軍用道路であり、八ヶ岳南麓を直線に近い最短距離で切り開いていることから棒道と名付けられたという説。原村(諏訪)や八ヶ岳南麓の村々(谷戸城跡の周辺や長坂駅の周辺)の民衆たちが行き来する道として自然に発生した道だという説などがあります。道筋の全体像もはっきりとは分かっておらず、『甲斐国志』には上・中・下の三本があると記されていますが、「上の棒道」だけだったという説もあります。有力な推定ルートとして、若神子(わかみこ、北杜市)から立沢(長野県富士見町)を経て、大門峠(長野県茅野市、長和町)に至る道筋があります。
棒道を歩くと、北には八ヶ岳、西には甲斐駒ヶ岳、北岳、鳳凰三山、南には甲府盆地の向こうに富士山が佇む、いにしえの人々も見たであろうダイナミックな景観が目に入ります。山林、そば畑、田園、堰(せぎ、農業用水路のこと)などの今に続く生活文化の姿が心を和ませてくれます。雄大な眺望の中、積み重ねられてきた歴史に思いを馳せながら、のんびり探訪する。それが、棒道を歩く醍醐味です。

用語解説

・堰(せぎ):農業用水路のことを指します。湧水から伸びる堰は、棒道沿いでも見られます。坂東ニ番の石仏付近は、棒道沿いに女取湧水からの堰が流れています。三分一湧水付近から西国十九番の石仏付近の堰には、ところどころに下り口が設けられており、野菜などを洗えます。湧水が生活に密着している様子が見て取れます。
・こて絵:北杜市内では、民家の壁面に、えびす様、家紋、「寿」の字などを象ったレリーフがよく見られます。これは漆喰で作る「こて絵」と呼ばれるものです。表面を塗装するのではなく、顔料を混ぜ込んだ漆喰で作るため色あせにくいのが特徴です。北杜市の民家に見られますが、現在、「こて絵」の作成・修復ができる職人は限られており、大変貴重なものとなっています。
・長坂三ヶ区の札番・水番制度(山梨県指定無形文化財):水争いを解決するための工夫として、三分一・八右衛門出口・女取湧水の下流にある長坂上条、長坂下条、渋沢の旧長坂町の3集落(三ヶ区)では、三つの湧水と堰の点検・清掃を地域の当番制で行う仕組みが、江戸時代から現在まで続けられています。点検時に当番が札を入れかえ、点検済みであることを示す「札所」は、各湧水の近くで見ることができます。
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棒道の石仏探訪コース

棒道沿いに存在する西国三十三所・坂東三十三所の石仏群を巡拝する

江戸時代末期ごろ、現在の北杜市長坂町や大泉町にあった村々の人々は、馬で荷運びをして諏訪と交易を行っていました。しかし、諏訪に抜ける山道である棒道は細り、道に迷う人もいたことから、地域の人々が資金を出し合って道を整備し、一町(約109m)ごとに石仏を置いて道標とし、旅人や商人たちの安全を願ったといいます。棒道は旧道の道筋がはっきりしない箇所が多いのですが、石仏が安置されたこの区間は古い道筋を比較的よく残しています。
火の見櫓跡から西国三十一番の石仏までは未舗装の道で、古道の趣を残しています。道筋の一部は防火帯として拡幅されていますが、馬一頭、人一人がすれ違える程度の、古い道幅を残していると思われる箇所もあります。今はカラマツに囲まれていますが、かつては草原が広がっており、馬草(まぐさ)などを採る入会地(いりあいち)でした。ただ古道歩きを楽しむだけでなく、昔の面影を重ね合わせながら歩くと、より深く魅力を味わうことができます。
距離 : 約8.2km / 所要時間 : 約4時間 / 徒歩

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湧水をたどるコース

八ヶ岳がもたらす水の脅威と恵み

八ヶ岳は山麓に湧水が多く、貴重な水源として恩恵をもたらしましたが、一方で「おんだし」と呼ばれる山津波(土石流)による大きな被害も引き起こしました。棒道の周辺には、湧水とそれを分け合う工夫、ごろごろと転がる大岩などの「おんだし」の痕跡が今も残されています。
距離 : 約10km / 所要時間 : 約5時間 / 徒歩

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信玄棒道コース

信玄が切り開いた軍用路という説がある棒道の一部区間(自然路)を散策する

小淵沢駅からスタートし、火の見櫓跡から棒道に入り、甲斐小泉駅まで歩くコースです。棒道は武田信玄が切り開いた軍用路だという説があることから、このコースは「信玄棒道」として親しまれ、北杜市観光協会のウォーキングマップでも紹介されています。
距離 : 約8.5km / 所要時間 : 約4.5時間 / 徒歩

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信玄伝説の地コース

武田信玄を敬愛した民衆の思いをたどる

江戸時代末期の棒道整備について記した道祖神や文書には、棒道は武田家の道、武田信玄の道だと記されています。また、道の周辺には信玄が戦勝祈願をしたと伝わる寺や、御神体を奉納したといわれる神社、信玄の名が刻まれた碑などが現存しています。こうした痕跡は、江戸時代以降、この地に住む民衆によって作られたものだと考えられます。八ヶ岳南麓に住む人々にとって、信玄が身近な、そして尊敬すべき存在であったことを推し量ることができます。
距離 : 約11km / 所要時間 : 約5時間 / 徒歩

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甲斐源氏の痕跡コース

雄大な風景の中に身を置きながら、甲斐源氏と関わりの深い城跡や神社仏閣をたどる

12世紀頃、八ヶ岳南麓の逸見(へみ、谷戸城跡~若神子城跡の周辺、諸説あり)に、甲斐源氏の祖・源清光が移り住み、「逸見」という姓を名乗りました。八ヶ岳南麓の地形は馬を育てるのに適しており、かつて朝廷に馬を貢納するための牧場・御牧(みまき)が置かれていたため、甲斐源氏は騎馬による大きな軍事力を得ることができたと言われています。また、御牧を作るために伐った木は木材として、あるいは刀などを作る燃料として活用されました。これらの環境的要因が、後に山梨県各地、全国各地に展開していく甲斐源氏の躍進につながったと考えられます。
逸見の地は、源(逸見)清光の没後、逸見氏などが治めましたが、15世紀頃には今井氏が押さえ、さらに16世紀頃には武田氏の支配下となりました。いずれも、甲斐源氏の一派です。
棒道沿いには、甲斐源氏に連なる人々とゆかりのある城跡や、彼らが崇敬したとされる神社仏閣が点在しています。八ヶ岳を背に甲府盆地に向かって歩けば、正面に富士山を、右手に南アルプスを望む雄大な景観が広がります。甲斐源氏たちも見たであろう眺望の中、甲府盆地に向かって下っていくコースです。
距離 : 約11km / 所要時間 : 約5.5時間 / 徒歩

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武田発祥の地コース

武田家の祖・武田信義にまつわる地を巡る

八ヶ岳南麓に住まった甲斐源氏の祖・源清光は多くの男子に恵まれ、彼らは山梨県各地に移り住み、勢力を広げました。その一人である信義は、逸見の南にある武田(韮崎市神山町)の武田八幡宮で元服し、「武田」という姓を名乗りました。これが、武田信玄を輩出した名門武家・武田氏の始まりです。
武田信義は、源平合戦でも活躍し、一時は源頼朝や義仲に並ぶ武家の棟梁でした。しかし、頼朝が自分を中心とした組織づくりを進める過程で、独立心の強い甲斐源氏が障害になると考え、排除することを企てます。そのため武田信義の息子である一条忠頼は殺害され、信義は引退。信義が力を失ったためか、信義が元服した武田八幡宮の別当寺(神社を管理する寺)は、すぐ側にある信義ゆかりの寺・願成寺ではなく、頼朝に厚遇された信義の弟・加賀美遠光が再興した法善寺(南アルプス市)が務めました。
武田発祥の地である韮崎市神山町には、城郭跡や館跡、信義が崇敬した神社仏閣など、武田氏に関連する遺跡が多く残っています。棒道からは離れていますが、合わせて歩けば、甲斐源氏から武田氏へとつながるストーリーが見えてきます。北に八ヶ岳、東に茅ヶ岳、その奥に秩父連峰、南東に富士山を望む景観も魅力です。
距離 : 約9km / 所要時間 : 約4時間 / 徒歩

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