妙心上人が開いた信仰の山
都留市と道志村にまたがる標高1681メートルの山。山梨百名山の一つ。
江戸時代後期の1813(文化10)年に妙心上人によって開山されました。富士講の行者で信州善光寺の弟子でもあった妙心上人は、富士山中での修行中にみた霊夢に導かれ、富士山の丑寅(鬼門)の方角にあたる御正体山を開山したといわれています。妙心上人は1815(文化12)年、御正体山の上人堂で断食を行って入定し、その即身仏(ミイラ)は上人堂に祀られて多くの信者を集めました。のちに2代妙善尼、3代巨戒上人が入山して信仰を広めましたが、明治維新による修験宗廃止の官令によって信徒が追い払われ、御正体山の信仰は急速に衰退していきました。養蚕の神としても多くの信者を集めていました。
登山道の急な登りを進んでいくと現れる平坦な空間は妙心上人堂の跡地です。妙心上人の即身仏は1890(明治23)年より生まれ故郷の横蔵寺(岐阜県揖斐川町)に安置されています。
江戸時代後期の1813(文化10)年に妙心上人によって開山されました。富士講の行者で信州善光寺の弟子でもあった妙心上人は、富士山中での修行中にみた霊夢に導かれ、富士山の丑寅(鬼門)の方角にあたる御正体山を開山したといわれています。妙心上人は1815(文化12)年、御正体山の上人堂で断食を行って入定し、その即身仏(ミイラ)は上人堂に祀られて多くの信者を集めました。のちに2代妙善尼、3代巨戒上人が入山して信仰を広めましたが、明治維新による修験宗廃止の官令によって信徒が追い払われ、御正体山の信仰は急速に衰退していきました。養蚕の神としても多くの信者を集めていました。
登山道の急な登りを進んでいくと現れる平坦な空間は妙心上人堂の跡地です。妙心上人の即身仏は1890(明治23)年より生まれ故郷の横蔵寺(岐阜県揖斐川町)に安置されています。
もっと知りたい
・登山コース:都留市側の登山道は細野と鹿留(池の平)の2コース。特に池の平からのコースは背後に富士山を望めておすすめ。妙心上人堂跡も池の平コース上にある。
・自然:山塊の大きな山で、ブナやミズナラ、ハリモミなどの自然林が広がっている。
<参考資料>
『都留市史 通史編』
https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/kinsei/pdf_c/c067.pdf
『都留市史 資料編』
https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/kinsei/pdf_c/c068.pdf
日本歴史地名体系「御正体山」
<参考サイト>
都留市「御正体山」
https://www.city.tsuru.yamanashi.jp/soshiki/sangyo/shoko_t/5/1330.html
都留市立図書館「妙心法師」
https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/kinsei/myousinhosi.htm
・自然:山塊の大きな山で、ブナやミズナラ、ハリモミなどの自然林が広がっている。
<参考資料>
『都留市史 通史編』
https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/kinsei/pdf_c/c067.pdf
『都留市史 資料編』
https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/kinsei/pdf_c/c068.pdf
日本歴史地名体系「御正体山」
<参考サイト>
都留市「御正体山」
https://www.city.tsuru.yamanashi.jp/soshiki/sangyo/shoko_t/5/1330.html
都留市立図書館「妙心法師」
https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/kinsei/myousinhosi.htm
COURSE MAP
次はどこへ行く?
水音に織機の音が重なる:西桂(にしかつら)コース
優美な裾野を引く御山の姿を正面に、豊かな水音と織機の音が重なる
国道139号から一本南を走る道が古い富士道。西桂町小沼(おぬま)の旧道は「宿通」と呼ばれ、江戸時代から近代を通じて富士山に登る人々を受け入れる宿場としてにぎわいました。明治時代には、馬車鉄道の乗り換え所もありました。
小沼付近は、八の字の形をなして緩やかに裾を引く富士の御山の全体を、最初に目にする場所。江戸から歩いてきた富士講の人々も、次第に大きくなる富士の姿に思いを新たにしたことでしょう。
旧道沿いには今も現役の機屋(はたや)があり、道を歩いていると、時折、織機のカシャンカシャンという音が聞こえてきます。この旧道は、幕末から近代にかけて、横浜を中心とした糸や織物の商売が盛んになると、織物問屋の集落として発展しました。
町中には家の敷地の中まで用水路が張り巡らされ、豊富な水があふれんばかりに流れています。この水も織物生産には欠かせないものです。
小沼付近は、八の字の形をなして緩やかに裾を引く富士の御山の全体を、最初に目にする場所。江戸から歩いてきた富士講の人々も、次第に大きくなる富士の姿に思いを新たにしたことでしょう。
旧道沿いには今も現役の機屋(はたや)があり、道を歩いていると、時折、織機のカシャンカシャンという音が聞こえてきます。この旧道は、幕末から近代にかけて、横浜を中心とした糸や織物の商売が盛んになると、織物問屋の集落として発展しました。
町中には家の敷地の中まで用水路が張り巡らされ、豊富な水があふれんばかりに流れています。この水も織物生産には欠かせないものです。
約3㎞ / 約3時間 / 徒歩