武田家最後の当主、勝頼が眠る寺

甲斐武田家当主の武田信武(1292(1303)- 1359(1362)年、生没年異説あり)を開基、夢窓疎石を開山とする寺院です。境内には信武の墓所のほか、1582(天正10)年に天目山の戦いに破れ、武田家最後の当主となった武田勝頼の墓所も置かれています。
信武は南北朝時代初期の争乱の中で、時の将軍足利尊氏の信頼を勝ち取り、甲斐守護職の補任を得ました。以降、甲斐守護職は信武の嫡流に継承されていくこととなります。その活躍から後に信武は「武田家中興の祖」とも称され、信玄は法泉寺に大修理を施し、寺領を寄進しました。
武田勝頼は1582(天正10)年に天目山の戦いで敗れて自刃し、武田家は滅亡しました。織田信長によって勝頼の首は京にさらされ、その葬儀は京都の妙心寺で行われました。
葬儀に参列した法泉寺の僧が勝頼の歯髪の一部をもらい受け、法泉寺の境内に手厚く埋葬しました。その「歯髪塚」の目印に桜が植えられたといわれ、勝頼の墓所のそばには今も桜の木があります。
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甲府五山:現在の甲府市に位置する長禅寺、東光寺、能成寺、円光院、法泉寺の5寺院を指します。1814(文化11)年成立の『甲斐国志』には、「甲府五山」や「府中五山」の記述がみえ、武田氏時代に由緒を持つ臨済宗妙心寺派(関山派)の5つの寺院が、近世以降「甲府五山」として受容されていったとみられています。通説では、武田信玄が最上の寺格を示す五つの寺院を定めた京都や鎌倉の五山制度にならい定めたとされますが、当時の資料からは確認できません。だたし、武田氏時代にこれら寺院の整備が行われたことは事実です。いずれの寺も、武田氏親族の墓があるなど武田氏と深いかかわりがあります。

<参考資料>
『やまなしのお寺と神社』

<参考サイト>
法泉寺
http://www4.nns.ne.jp/~hosenji/

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※情報は制作時のものであるため、実際の訪問の際には事前にご確認ください。

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右はきわら左やはた ここが遠路の分かれ道

石和から春日居へ 道に名付けられた町を目指す

笛吹市の別田三叉路、現在の柳橋交差点の一角には石造りの三界萬霊塔が遺されており、そこには「右はきわら道、左やはた道」と刻まれています。「萩原道」は大菩薩峠への道中で萩原(甲州市)を通過する青梅街道の別名、「八幡道」は旧八幡村(山梨市)を通過する秩父往還間道の別名であり、ここが秩父往還本道(青梅街道と並行)と間道の分岐点であったことが分かります。
この一帯の地名「別田」の由来について、江戸時代末期に編纂された甲斐国の地誌『甲斐国志』は「分かれ路があったので、この地を別田と呼ぶようになった」と伝えています。道に名付けられた町であった別田周辺には、道標や道祖神が幾つも残されています。山裾の道を辿って寺社を巡りつつ、かつての交通の要衝を目指してみませんか。春には一面に広がる桃の花が、すばらしい景色を見せてくれることでしょう。道中の岩下温泉には日帰り入浴が可能な温泉があるほか、石和温泉駅には足湯も併設されています。
約11.5km(レンタサイクル利用の場合)約8.3km(徒歩の場合) / 約6時間(レンタサイクル利用の場合)約7時間(徒歩の場合) /

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