若神子城跡(わかみこじょうあと)

城山から富士山や茅ヶ岳を一望する甲斐源氏ゆかりの城跡

新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)、源義清、あるいは清光の城であったという説がありますが、未詳です。
諏訪や佐久へ抜ける街道が集まる八ヶ岳台地は交通の要衝であり、特に若神子は棒道と佐久往還が分岐する要地です。戦国時代、信濃侵攻を考えていた武田信玄の父・信虎は、逸見氏のあとにこの地を押さえていた今井信元を下し、巨摩郡北部を支配下に置きました。若神子城は武田氏の重要な軍事拠点となり、八ヶ岳台地にめぐらされた烽火台網の重要な中継地にもなりました。武田家滅亡後に徳川氏と北条氏が甲斐の覇権を争った際には(天正壬午の乱)、北条氏は若神子城を、徳川氏は新府城(韮崎市)を本陣としました。
現在は公園として整備されています。城上からは茅ヶ岳や富士山を一望できます。
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・城跡からの眺め:須玉の街並みを見晴らせる高台にあり、富士山や茅ヶ岳の眺望も見事。春は桜とつつじ、5月は藤棚が美しく、花見スポットとしても人気です。
・ふるさと公園:若神子城跡では古城の復元とともに、町民の憩いの場として「ふるさと公園」を整備しています。

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武田発祥の地コース

武田家の祖・武田信義にまつわる地を巡る

八ヶ岳南麓に住まった甲斐源氏の祖・源清光は多くの男子に恵まれ、彼らは山梨県各地に移り住み、勢力を広げました。その一人である信義は、逸見の南にある武田(韮崎市神山町)の武田八幡宮で元服し、「武田」という姓を名乗りました。これが、武田信玄を輩出した名門武家・武田氏の始まりです。
武田信義は、源平合戦でも活躍し、一時は源頼朝や義仲に並ぶ武家の棟梁でした。しかし、頼朝が自分を中心とした組織づくりを進める過程で、独立心の強い甲斐源氏が障害になると考え、排除することを企てます。そのため武田信義の息子である一条忠頼は殺害され、信義は引退。信義が力を失ったためか、信義が元服した武田八幡宮の別当寺(神社を管理する寺)は、すぐ側にある信義ゆかりの寺・願成寺ではなく、頼朝に厚遇された信義の弟・加賀美遠光が再興した法善寺(南アルプス市)が務めました。
武田発祥の地である韮崎市神山町には、城郭跡や館跡、信義が崇敬した神社仏閣など、武田氏に関連する遺跡が多く残っています。棒道からは離れていますが、合わせて歩けば、甲斐源氏から武田氏へとつながるストーリーが見えてきます。北に八ヶ岳、東に茅ヶ岳、その奥に秩父連峰、南東に富士山を望む景観も魅力です。
約9km / 約4時間 / 徒歩

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