甲斐国の中心として栄えた交通の要衝
江戸方面から見て栗原宿の次の宿で、甲府盆地東部の水陸交通の要所でした。鎌倉街道との分岐点にあたるほか、甲府盆地と駿河(静岡県)を結ぶ富士川水運の船着場も置かれ、笛吹川を下って年貢米や物資が送られていました。
1834(天保4)年頃には本陣が1軒、脇本陣が2軒、旅籠が18軒あり、かなり大きな宿場町として賑わいました。葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景 甲州伊沢暁」には、早朝の石和宿を出発する旅人の様子が描かれています。
石和宿が置かれた地域は、古代から甲斐国の中心として栄え、中世には甲斐源氏の武田信光の居館がありました。また、武田二十四将(武田信玄に仕えた中でも特に有能な武将24人)の一人、高坂弾正の生家もあったといわれています。
1834(天保4)年頃には本陣が1軒、脇本陣が2軒、旅籠が18軒あり、かなり大きな宿場町として賑わいました。葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景 甲州伊沢暁」には、早朝の石和宿を出発する旅人の様子が描かれています。
石和宿が置かれた地域は、古代から甲斐国の中心として栄え、中世には甲斐源氏の武田信光の居館がありました。また、武田二十四将(武田信玄に仕えた中でも特に有能な武将24人)の一人、高坂弾正の生家もあったといわれています。
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身延参りと石和:江戸時代には「身延参り」といって、江戸から山梨県南巨摩郡身延町にある日蓮宗総本山の身延山久遠寺に多くの人が参詣しました。石和宿はそうした参詣者も多く訪れ、十返舎一九の「甲州道中記」には、石和から富士川まで舟で下り、身延参りをする様子が描かれています。