駿信、佐久往還が分岐する交通の要衝

韮崎宿といえば、甲州街道39番目の宿場町です。なお、38番目は甲府柳町宿、40番目は台ケ原宿です。韮崎宿は甲州街道というイメージが強いですが、実は駿河(静岡)と信州諏訪(長野)を結ぶ駿信往還(西郡路)、信州佐久(長野)を結ぶ佐久往還が交差する、重要な道が集まるところでした。道を通じて、人・物・情報・文化などがもたらされ、そして発信されていく。このように、たくさんの道が交差している韮崎宿は、最先端の情報収集発信基地だといっても言い過ぎではないでしょう。そのような場所だからこそ、江戸時代の1753(宝暦3)年には一ツ橋陣屋がおかれて、山梨県の北西部にあたる巨摩郡の中心地として扱われたのです。
 散策で気づいてもらいたいのが、家が道に対してやや斜めに立ち並んでいる姿です。建物がなければその跡地の形を見てもらってもわかるはずです。まるで鋸の歯のようです。この形の理由が知りたくなりますが、いくつかの説があります。「間口は狭いが奥行きは深い。間口が狭ければ、実は税金がすくないからだ」。「冬に吹く冷たく強い八ヶ岳おろしを少しでも防ぐ工夫だ」。どちらが正しいのか、それとも両方ともなのか、別の理由があるのか、自分なりの答えを考える旅も楽しいかもしれません。
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・一ツ橋家:一ツ橋家は徳川家と近親関係にあった由緒ある家柄で、御三家に次いで将軍の継承権を与えられていた徳川御三卿と呼ばれました。すなわち、かなりの家柄だということです。なお、御三卿のもう二つは清水家と田安家です。
・中のマンホール:散策していれば、必ず出会うものがあります。その一つがマンホールです。ご存じの方も多いかもしれませんが、マンホールは町によってデザインが異なります。韮崎では、チョウゲンボウという鳥に、スズランに、レンゲツツジなどです。どれも、韮崎らしさを伝えるものばかり。宿場歩きでマンホールの写真集めをしても楽しいかもしれません。
・原路(はらじ):八ヶ岳から伸びる七里岩の台地の上に裏甲州街道ともいうべき道があります。その名は原路です。甲州街道はご存じのとおり釜無川沿いを通過する、まさに「河路」です。この釜無川、江戸時代の記録を見れば2年に一度は大きな水害をもたらしていたようです。ということは、その度に、橋は落ち、道は泥や石におおわれて、交通が困難になったはず。そんな時に、裏から表になるのが「原路」なのです。なお、いつの時代も裏だったわけではありません。何しろ、武田家最後の将である武田勝頼が築城した新府城を通る道なのですから、戦国時代には表の街道としての役割を担っていたのです。道にも歴史ありといったところを感じてみてください。
・七里岩:七里岩は「しちりいわ」と読むのですが、「しちりがいわ」と呼ぶ方も多いようです。どちらか正しいのかは分かりませんが、それよりもぜひ、七里岩そのものの魅力を見てください。
 まずは、溶岩と勘違いしている方も多いですが、これは八ヶ岳が崩壊してできたもので、溶岩とは違います。学術的にいうと韮崎岩屑流と呼ばれるもので、崩れた後に塩川と釜無川がせっせと削り出し、今の形になったのです。自然が作り出した彫刻といえるでしょう。この風景は全国的に見ても世界的に見ても珍しいものです。崖の上と下では400~100メートルも高さが違う、まさに断崖絶壁。それが蔦木(長野県)から韮崎まで約30キロメートルも続くのです。30キロメートルといえば、七里。名前の由来も分かっていただけたのではないでしょうか。なお、七里岩の中腹にある雲岩寺の観音堂の参拝などで七里岩を観察すると、岩屑流の意味が体感できて面白いはずです。
・小林一三さんの生まれ故郷:夏の甲子園、ゴジラなどの東邦映画、宝塚、阪急電鉄……これらに関係する人物といえば、小林一三。大阪を中心に大活躍したから、関西出身と勘違いしている方も多いのではないでしょうか。実は、小林一三はここ韮崎宿の出身なのです。慶応大学に進学してからは、韮崎に帰京する機会も少なかったようです。ただ、小林一三の家のある阪急池田駅から観る風景と、小林一三が生まれた韮崎駅から観る風景は、どこか似ているようにも思われます。

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