身禄ゆかりの宿通
1733(享保18)年、富士講の行者である食行身禄(じきぎょうみろく)が当時の政治を批判して、富士山の七合五勺の烏帽子岩で断食の末に入定し即身仏となると、江戸とその周辺で富士講の人気が一気に高まりました。身禄は北口(吉田口)から登山したため、身禄ゆかりのルートが人気を集め、小沼の宿場も多くの参詣者で賑わいました。
小沼上町には宿屋が3軒あり、このなかでも身禄自作と伝わる像が祀られていた茶屋の「林家」は「身禄茶屋」と呼ばれ、富士講信者のみが宿泊できたといいます。
明治17(1884)年は食行身禄没後の150年忌にあたり、記念碑が建てられました。現在、小沼には3つの碑が残されています。
小沼上町には宿屋が3軒あり、このなかでも身禄自作と伝わる像が祀られていた茶屋の「林家」は「身禄茶屋」と呼ばれ、富士講信者のみが宿泊できたといいます。
明治17(1884)年は食行身禄没後の150年忌にあたり、記念碑が建てられました。現在、小沼には3つの碑が残されています。
もっと知りたい
・馬車鉄道:明治時代、現在の西桂町役場前の辺りに馬車鉄道の小沼駅が開業した。大月~小沼を結ぶ富士馬車鉄道と、小沼~吉田を結ぶ都留馬車鉄道とでは、軌道の幅が異なっており、乗り換え場所が必要だったため。この小沼駅の開業に伴い、宿屋なども次第に集まった。元々上町にあった食行身禄の碑の一つも、その際に移設されている。
〈参考資料〉
「富士参詣の道を往く-富士山道」
https://www.pref.yamanashi.jp/fujisan/documents/publicity_materials/documents/fujisanmichi-omote.pdf
『富士山-山梨県富士山総合学術調査研究報告書2(資料編)』
『谷村路-山梨県歴史の道調査報告書第11集』
竹谷靱負「富士山と信仰文化」(『みんてつvol.50』2014年夏号、特集 富士山とともに)
https://www.mintetsu.or.jp/association/mintetsu/pdf/50_p04_07.pdf
山梨てくてくvol.3(山梨県広聴広報課)
https://www.pref.yamanashi.jp/koucho/tekuteku/documents/tektek_vol03.pdf
〈参考資料〉
「富士参詣の道を往く-富士山道」
https://www.pref.yamanashi.jp/fujisan/documents/publicity_materials/documents/fujisanmichi-omote.pdf
『富士山-山梨県富士山総合学術調査研究報告書2(資料編)』
『谷村路-山梨県歴史の道調査報告書第11集』
竹谷靱負「富士山と信仰文化」(『みんてつvol.50』2014年夏号、特集 富士山とともに)
https://www.mintetsu.or.jp/association/mintetsu/pdf/50_p04_07.pdf
山梨てくてくvol.3(山梨県広聴広報課)
https://www.pref.yamanashi.jp/koucho/tekuteku/documents/tektek_vol03.pdf