秋元氏三代の居館となった平城跡
谷村第一小学校と都留市役所のある場所が谷村城の跡地です。
1633(寛永10)年、もとは徳川家康の側近だった秋元氏が、上州惣社(群馬県前橋市)から郡内領全域を管轄する谷村藩へ転封。藩主として谷村の城下町の整備を進めました。現在も谷村のまちなかには、当時の町割りが残っています。
山城である勝山城は政治を行うのに不便なため、町の近くに新たに築城したと考えられていますが、秋元氏より前の小山田氏の時代から、同じ場所に館があったともいわれています。谷村城は藩主の居館、勝山城は要塞として使われました。
秋元氏は1704(宝永元)年までの70年間、泰朝・富朝・喬知の三代にわたって谷村藩主として郡内を治めました。その後、1704(宝永元)年に秋元氏が武蔵国川越(埼玉県川越市)に移ってからは、郡内は江戸幕府の直轄地(天領)となりました。
1633(寛永10)年、もとは徳川家康の側近だった秋元氏が、上州惣社(群馬県前橋市)から郡内領全域を管轄する谷村藩へ転封。藩主として谷村の城下町の整備を進めました。現在も谷村のまちなかには、当時の町割りが残っています。
山城である勝山城は政治を行うのに不便なため、町の近くに新たに築城したと考えられていますが、秋元氏より前の小山田氏の時代から、同じ場所に館があったともいわれています。谷村城は藩主の居館、勝山城は要塞として使われました。
秋元氏は1704(宝永元)年までの70年間、泰朝・富朝・喬知の三代にわたって谷村藩主として郡内を治めました。その後、1704(宝永元)年に秋元氏が武蔵国川越(埼玉県川越市)に移ってからは、郡内は江戸幕府の直轄地(天領)となりました。
もっと知りたい
・秋元泰朝:徳川家康の側近であった秋元泰朝は、日光東照宮造営奉行として造営の指揮を執った。戦闘よりも土木工事においてその才能を発揮した。
・谷村城下と現在の町割り:都留市役所の入口には秋元泰朝が造った家中川の大堰(用水路)を示す碑が立ち、天領時代の代官の役宅「陣屋」の跡地は現在の都留簡易裁判所になっている。
<参考資料>
『谷村路-山梨県歴史の道調査報告書第11集』
ミュージアム都留 解説シート
<参考サイト>
都留市「城山(勝山城跡)」
https://www.city.tsuru.yamanashi.jp/soshiki/sangyo/shoko_t/5/1334.html
・谷村城下と現在の町割り:都留市役所の入口には秋元泰朝が造った家中川の大堰(用水路)を示す碑が立ち、天領時代の代官の役宅「陣屋」の跡地は現在の都留簡易裁判所になっている。
<参考資料>
『谷村路-山梨県歴史の道調査報告書第11集』
ミュージアム都留 解説シート
<参考サイト>
都留市「城山(勝山城跡)」
https://www.city.tsuru.yamanashi.jp/soshiki/sangyo/shoko_t/5/1334.html