放光寺(ほうこうじ)

四季折々に花が咲く「花の寺」

1184(元暦元)年、甲斐源氏の安田義定が源平の合戦で手柄を立てた後に創建したとされ、安田一門の菩提寺となった真言宗寺院です。塩山地域の北方大菩薩の山麓、高橋荘(現在の一ノ瀬高橋)にあった法光山高橋寺を牧ノ荘に移し、高橋山多聞院法光寺と改め天台宗寺院としました。放光寺は安田一門の菩提寺であり、義定が当初奉納し、その後改鋳を繰り返した銅鐘が現在まで残されています。古くから真言密教の道場として繁栄を誇り、戦国時代には武田信玄が祈願寺としました。1582(天正10)年に織田軍の兵火により焼失しましたが、寛文年間(1661-1673年)に徳川家の保護の下、義定の末裔であった保田宗雪を中興開基として復興しました。
本尊の木造大日如来坐像と木造愛染明王坐像、木造不動明王立像の3体は、義定が京都から持ち帰ったと伝えられる平安時代末期の作で、いずれも国の重要文化財になっています。
境内に美しい花が咲く「花の寺」としても知られ、梅、椿、桜、牡丹、紫陽花、花菖蒲、山吹など、季節ごとの花が目を楽しませてくれます。庭園には笛吹川水系の「小屋敷セギ」の水が流れ、豊かな池泉を形づくっています。
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安田義定と梶原景時:義定の追討使の一人に頼朝の腹心であった梶原景時がおり、景時は義定、そして頼朝の没後も鎌倉で十三人の合議制、いわゆる「鎌倉殿の十三人」の一人となるなど、権勢を維持しましたが、1199(正治元)年に失脚し自身も鎌倉を追われることになりました。追討の後、景時は義定の亡魂に悩まされ、供養のために義定を擬して造らせた仏像が、放光寺開基堂の毘沙門天である、との伝承もあります。

堰(セギ):甲州では用水路を「セギ(堰)」と呼びますが、ここ塩山地域には笛吹川から取水する3本(藤木、小屋敷、井尻)のセギが縦横に張り巡らされ、河岸段丘上の土地に豊かな水を供給しています。恵林寺庭園や放光寺の池泉に用いられる水も、小屋敷セギから取水されたものです。セギは現在も地区住民によって維持管理がなされています。

<参考資料>
『やまなしのお寺と神社』
『甲州市武田氏絵巻』
『甲州市歴史的風致維持向上計画』

<参考サイト>
放光寺
http://www.hokoji.org/
富士の国やまなし観光ネット「放光寺」
https://www.yamanashi-kankou.jp/kankou/spot/p1_3471.html

御朱印もらえます

※情報は制作時のものであるため、実際の訪問の際には事前にご確認ください。

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