室町時代の貴重な仏殿が残る

寺伝によれば創建は平安時代末期、甲斐源氏の祖新羅三郎義光が国家鎮護、仏法繁昌の祈願所として建立し、寺号を「興国院」としました。
1262(弘長2)年、南宋の渡来僧である蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が、臨済宗の寺院として再興しました。この際に寺名を「東光寺」と改めています。時の政権により鎌倉を追われ、甲斐に配流された道隆を迎えたのは、当地に拠点を置く甲斐源氏たちでした。道隆が作庭したとされる境内の禅宗庭園は県の文化財に指定され、道隆の書簡も残されています。
また、戦国時代には「甲府五山」の一寺として繁栄しました。武田家との関係も深く、境内には信玄の長男・義信と、信玄の側室であった諏訪姫の父・諏訪頼重の墓所が残されています。
仏殿(薬師堂)は16世紀の中頃、室町時代の建築とされており、国の重要文化財に指定されています。武田家滅亡に際し、織田軍に焼き討ちをかけられ堂宇・記録文書を失いましたが、仏殿は焼失を免れました。第二次大戦時には甲府大空襲にも遭いましたが、再び奇跡的に焼け残りました。仏殿の柱には、織田軍が乱入した時の刀傷が残っています。
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甲府五山:現在の甲府市に位置する長禅寺、東光寺、能成寺、円光院、法泉寺の5寺院を指します。1814(文化11)年成立の『甲斐国志』には、「甲府五山」や「府中五山」の記述がみえ、武田氏時代に由緒を持つ臨済宗妙心寺派(関山派)の5つの寺院が、近世以降「甲府五山」として受容されていったとみられています。通説では、武田信玄が最上の寺格を示す五つの寺院を定めた京都や鎌倉の五山制度にならい定めたとされますが、当時の資料からは確認できません。だたし、武田氏時代にこれら寺院の整備が行われたことは事実です。いずれの寺も、武田氏親族の墓があるなど武田氏と深いかかわりがあります。、

蘭渓道隆:鎌倉時代に南宋から渡来し、日本に本格的な禅をもたらした臨済宗の僧です。時の執権・北条時頼は道隆に帰依し、1253(建長5)年には建長寺(神奈川県鎌倉市)の開山として迎えられました。しかしその後、大陸では宋が元に征服され、日本にも蒙古が襲来します。諜者の疑いをかけられた道隆は一時鎌倉を追われ、甲斐、奥州、伊豆など各地に移されました。

東光寺仏殿:唐様(からよう)と呼ばれる中国の建築様式を模した、一辺が8mほどの正方形の建物です。屋根とその下にひさし風にさし出た裳階(もこし)にはヒノキの皮を重ね合わせた桧皮葺が用いられ、流れるような曲線が特徴的です。

<参考資料>
『歴史の道調査報告書』青梅街道
『やまなしのお寺と神社』

<参考サイト>
甲府市観光協会「東光寺」
https://kofu-tourism.com/spot/32
甲府市「東光寺仏殿」
https://www.city.kofu.yamanashi.jp/senior/bunkazai/014.html

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※情報は制作時のものであるため、実際の訪問の際には事前にご確認ください。

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