跡部景家終焉の地 甲斐源氏、安田義定の要害山との伝承も

秩父裏街道の沿線、西保下地内にある山城跡です。周辺には西御所館跡、亥申屋敷、大門前、木戸口、射場、金屋敷などの地名が残り、武家や戦にかかわりの深い土地であったことが伺えます。
さらに時代を下り、甲斐武田家第15代当主の武田信守(生年不詳 - 1455年)は、先代信重の没年に家督を継承しますが、在位はわずか5年であったようです。この頃、信濃の武将跡部氏が、守護代として権勢を振るっていました。家督を継いだ甲斐武田家第16代当主の武田信昌(1447 - 1505年)は、1464(寛正5)年に跡部氏の勢力と争って勝利し(夕狩沢合戦)、当主の跡部景家を小田野城に追い詰めて切腹させました。跡部景家を排斥したことにより、信昌は甲斐国における武田氏の勢力基盤の回復に成功します。
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安田義定終焉の地:江戸時代末期に編纂された地誌『甲斐国志』によれば、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した甲斐源氏の一人安田義定が、小田野山を要害山としたという伝承も残されています。

夕狩沢:現在の笛吹市と山梨市の市境付近を流れる河川です。1464(寛正5)年の夕狩沢合戦で戦端が開かれた夕狩沢古戦場跡(山梨市上岩下)の周辺には、「矢坪」「勝負沢」など戦を想起させる地名が残ります。

落合殿:武田信昌は存命中に長男の信縄に家督を譲り、現在の山梨市落合に居館を置いて隠居したことから「落合殿」「落合御前」とも称されたようです。館の痕跡は残されていませんが、「落合」の小字が現在まで残っています。

兄弟相論:武田信昌は存命中に甲斐武田家第17代当主の武田信縄(1471 - 1507年)に家督を譲って隠居したものの、後に翻意し次男の油川信恵(生年不詳 - 1508年)への家督相続を望んだことから、信縄は生涯を通じて信恵との争いに身を投じることになります。当時の窪八幡宮の別当、上之坊普賢寺の住職が記した文書である『王代記』では、信縄と油川信恵による武田家内部の争いを「兄弟相論」と記しています。さらに1498(明応7)年には明応の大地震が発生、甲斐国は大きな動乱の中で戦国時代に突入していくこととなりました。

<参考資料>
『歴史の道調査報告書』秩父往還

山梨市「小田野城跡」
https://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/citizen/docs/city_53.html
山梨市「伝安田義定の墓」
https://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/citizen/docs/city_55.html

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