大ムカデの彫刻がある寺院

真言宗智山派の寺院で、放光寺の末寺とされています。寺伝では甲斐武田家第5代当主であった武田信光が、当時の居館であった石和館の鬼門除けとして、承元年間(1207 - 1210年)に建立したとされています。現存する棟札から、1565(永禄8)年には武田信玄により再興され、1679(延宝7)年にも修復再興されたことが明らかになっています。
江戸時代末期に編纂された地誌『甲斐国志』によれば、甲斐源氏の祖である新羅三郎義光から受け継いだ毘沙門天を安置するために開創されたとも伝えられています。本堂内の欄間には毘沙門天の使いとされる大ムカデの彫刻が施され、また境内には甲斐源氏の祖、新羅三郎義光の手植えと伝わるエドヒガンザクラがあり、「新羅桜」と呼ばれています。
新羅桜は1947(昭和22)年の台風で一度倒れてしまいましたが、その後一本の根から芽が出て、再び樹勢を取り戻しました。春には新羅桜のほか、梅、ツツジなどさまざまな花が境内を鮮やかに彩ります。
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新羅三郎義光:甲斐源氏の祖とされる平安時代中期の武将。源頼義の子にあたります。滋賀県大津市の園城寺(通称「三井寺」)にある新羅善神堂で義光が元服したことから、新羅三郎と称するようになりました。後三年の役(1083-1087年)で兄の義家を助けて名を上げ、常陸介(ひたちのすけ)を経て甲斐守(かいのかみ)などを務めました。

毘沙門天とムカデ:戦の神、毘沙門天の使いとされるのがムカデです。その理由には、たくさんの足が一糸乱れず動くことで前進すること、後退せず前にしか進めないことなどが戦術に通じるなど、諸説あります。ちなみに武田信玄の伝令隊は「百足衆」と呼ばれ、ムカデを描いた旗指物を掲げていました。

武田信光と石和館:平安時代後期には現在の笛吹市石和町に伊勢神宮の所領「石禾御厨(いさわのみくりや)」がありました。甲斐武田家第5代当主の武田信光(のぶみつ)は石和の地を拠点としたとされ、石和五郎、石和五郎信光とも称されました。1192(建久3)年には石和の守護職となり、鎌倉鶴岡八幡宮を勧請し、後の石和八幡宮となる国衙八幡を建立したとの伝承もあります。その後、承久の乱(1221年)で武功を上げ、甲斐源氏武田氏の主流となっていきました。

〈参考資料〉
『甲斐源氏 列島を駆ける武士団』
『探訪甲斐の至宝』
『歴史の道調査報告書』秩父街道
『やまなしのお寺と神社』
『石和歴史散歩(パンフレット)』

〈参考サイト〉
大嶽山那賀都神社
https://nagato-jinja.jp/
富士の国やまなし観光ネット「吉祥寺」
https://www.yamanashi-kankou.jp/kankou/spot/p1_3743.html
山梨県神社庁「神明神社」
http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/3016
山梨市「吉祥寺本堂」
https://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/citizen/docs/city_05.html
山梨市「吉祥寺の新羅ザクラ」
https://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/citizen/docs/prefecture_36.html
高野山真言宗やすらか庵「毘沙門天とムカデ」
https://yasurakaan.com/bishyamonten/mukade/

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※情報は制作時のものであるため、実際の訪問の際には事前にご確認ください。

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